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奇跡の生還(過去ログ2004-10)
 1限は今日も寝倒し、3限もほとんど聞き流して大学を後にした私。「ザ・ワイド」の災害報道でも見ようと思いテレビをつけると… 

 各局で「土砂崩れ現場に生存者」の報道特番が放送されていた。地震発生から行方不明になっていた小出町の家族3人が乗った車が長岡市の土砂崩れ現場で発見され、中に生存者がいたということ。既に2歳の長男が救助され、病院で手当てを受けておりあとの2人も生存反応との情報。というわけで勉強しながら救出活動を逐一見守る。しかしあとの2人の救出活動は難航の様子。途中何度も余震で中継画面が揺れた。5時ごろようやく母親も救出。ところが…

 「母親は心肺停止」の報道が流れる。えっ、さっきは「消防隊員の呼びかけに反応した」とか言っていたのに…。画面にも一時「3人生存」って出ていたのに。後で知ったことによると、後の2人の心音確認だとか、母親が応答したとかいうのは全て情報が錯綜する中生まれた誤報であったようである。結局母親は死亡が確認された。残る3歳の長女の救出作業は夜も続く。
*(編者注)その後長女真優ちゃんの死亡も確認された。二次災害の恐れなどから、長女の遺体搬出には慎重な作業と長い時間を要した。一方、奇跡的に助かった長男優太ちゃんはその後順調に回復し、地震からまもなく1年になろうとしている現在仏壇の母と姉にお茶を供えているという。
なお、この一連の救出劇はドキュメンタリー番組や読みきり漫画になり、現場については先ごろ保存の方針が決まったという。(2005・10・21)
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ラストクリスマス(過去ログ2004-10)
地震のニュースを見てから大学へ。

4限の社会学は本当につまらない。寝て単位落とすための授業だ。

夜は先週見逃した矢田亜希子主演の「ラストクリスマス」今クールの月9である。相手役は織田裕二。

矢田ちゃんは元ヤンという設定。そのせいか少し男っぽさ、のあるキャラの様子。髪も短めだった。それでも可愛いからいいけど。

あと、脇を固める役者も面白い。織田の上司兼友人は伊原剛志。(96年朝ドラ「ふたりっ子」、ヒロイン菊池麻衣子の夫役が有名)新入社員がセカチュー映画版主演の森山未來、矢田ちゃんの暴走族仲間&同僚がMEGUMI、矢田ちゃん(実は重病らしい)の主治医がアタック25の児玉清である。前3人はドラマ内の仮装パーティーではしゃいでいたし、児玉氏もアタックがどうのこうのと言っていた。(笑)

そういえば、玉木宏も出ている。(片瀬那奈の相手役?)彼は先頃名鉄空港特急のイメージキャラクターに決まった。新空港開港は来年2月17日。是非見に行きたい。
被害拡大
 死者は22人、不明者若干名、今後も増加の恐れ。
4年前の鳥取では、豪雪に備えた堅牢な家屋が多くの市民の命を救った(結果的に震度6強でも死者0人)そのこともあり、今回も死者なしという奇跡を願ったのだが、残念ながらそれは叶わなかった。改めてご冥福をお祈りします。

 報道特番は夜通し続いた様子。朝起きると小千谷市と川口町の境付近の空撮中継が延々と流れていた。上越線と国道が斜面と一緒に崩れ落ち、近くの家も崩壊している。他局を見ると夫と孫娘を亡くした川口町の女性ヘのインタビュー(よく承諾されたものだ。それとも取材を強制されたのか?)、脱線した新幹線とき325号の先頭車の無惨な姿。(しかし人的被害なし)画面下には災害情報のテロップが延々と流れている。

 人的被害や住宅の損壊も相当なものだが、ライフラインや交通機関の被害も深刻だという。ここに交通機関の被害状況を挙げておくが、新幹線では40年にわたった営業列車による無事故記録が途切れ、新幹線、在来線、高速道路の寸断が原因で22年ぶりに東京-新潟間の航空便が復活する羽目になった。
新潟で震度6強・3回(原題)読書が予定を狂わせる?(過去ログ2004-10)
読書とは、本来受動的にやるものではない。能動的にやるものである。だから同じ読書でも課題図書を読むのと、読みたい本を読むことは全く別のものである。前者は特に気乗りせず、集中力の欠如や怠惰を招く。

そんななか新潟県中越で大地震。しかも震度6強が3連発。各局の災害報道にかじりついてしまう。19時からのドラえもんスペシャルは「新幹線脱線」のテロップとともに中断された。後で聞いたところ、テレビ東京は呑気に旅番組を流していたらしい。

新幹線の方ではけが人1人出なかったようだが、住宅の倒壊や地震のショックによる死者の数が画面を見つめる間に次々増えていた。

*一部2005年10月21日加筆
新幹線開業記念日に寄せて
 祝、東海道新幹線開業40周年。ほら、TOKIOの曲(歌詞無しver)がCMで流れてますね。9日後開幕の東京オリンピック開会式に合わせての開業で、中学生だった母方の伯父は京都市の中学生の中から選ばれて試乗列車に乗ったとのこと。当時小3だった母は今もこのことを自分のことのように誇らしげに語る。

 当時の主力車両はその後20年以上にわたり、「ひかり号」として第一線で活躍し続けた。1983年9月か10月、私が生まれて初めて乗った鉄道車両もこの0系「ひかり号」である。その後4年ほど東京に住んだわけだが、帰省のたびにいつも0系の「ひかり 新大阪」・「ひかり 博多」・「ひかり 岡山」・「ひかり 広島」の表示を出した列車に乗っていたわけである。八重洲・有楽町の夜景に見送られ、名古屋で見た名鉄電車に歓声を上げ、車内販売ではポッカのつぶつぶグレープをいつも親にせがんでいた。シウマイが、安倍川餅が、ういろうが…お姉さんの手に乗って車内を行き来する。嗚呼、思い出の東海道新幹線…。当時は100系も登場しだした頃だったが、私が乗るときに限っていつも0系ばかりが来ていたような記憶がある。

 関西に住むと、祖父母がともに関西在住(しかも父方の方は同居)ということもありあまり家族で新幹線に乗ることが無くなった。山陽直通「のぞみ」が出来た時には広島に連れて行ってもらえたが、もう0系の「ひかり」に乗ることは無かった。最後に0系「ひかり」に乗ったのは1989年のGW、新大阪-名古屋間だったと記憶している。

 しかしその後は一人旅で新幹線に乗る機会が増えた。500系貸し切り列車、700系「のぞみ」、レールスター、そして東日本のMaxや「はやて」、「こまち」等等。特に700系「のぞみ」の車内では大切な女性と楽しくメールしたり、夜景見ながらあゆやGLAYのお気に入りナンバーを聴いたり、受験勉強をしたり、失恋のエレジーに浸ったりと0系「ひかり」の時代に負けないぐらい大きな思い出が生まれた。東京駅弁の「深川めし」を食べたのも、鈴木あみやSPEEDを聴いたのも700系の車内だっけ。
 次に彼女が出来るのはN700系の「のぞみ」が出来る頃か、時速360キロ運転の新青森行き「はやて」が出来る頃か、はては北陸新幹線富山延伸の頃かは分からない。それでも今後車両変われど、沿線風景変われど、新幹線自体が昔と同じように我々に楽しい旅の夢と喜怒哀楽溢れる思い出を与え続けていくことに間違いはないだろう。

 ちなみに先程avex社長に就任した松浦勝人氏は丁度この記念すべき日に生を受けたらしい。なお不謹慎なネタだが、この間死刑になったあの大馬鹿野郎はケネディ暗殺の衛星中継があった日(1963年11月23日)が誕生日とか。

テーマ:鉄道 - ジャンル:趣味・実用

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